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1-1. 青年ダーウィン、ビーグル号に乗る(小野幹雄)

1-1. 青年ダーウィン、ビーグル号に乗る(小野幹雄)

 生物進化論で有名なチャールズ・ロバート・ダーウィン(Charles Robert Darwin) は、今から約200年ほど前の1809年2月12日、英国南部のシュルーズバリーに生まれた。父親のロバート・ウォーリングは祖父の代から続く医師、母親のスザンナは陶器メーカーとして有名なウェッジウッドの創業者ジョサイア・ウェッジウッドの娘である。ダーウィン家は貴族ではなかったが、ジェントリーと呼ばれる、貴族に準じる階層であった。これは、英語でいう紳士(ジェントルマン)の語源とされるクラスである。また、祖父のエラズマス・ダーウィンもやはり医師だったが、初期の生物進化論者として教科書にも登場する人物である。

チャールズ・ダーウィン

1854年頃のチャールズ・ダーウィン(『自叙伝』より)。

© The Complete Work of Charles Darwin Online (http://darwin-online.org.uk/)

チャールズ・ダーウィン

医学生部から聖職者神学部への道、そして軍艦乗船へ

 医師の息子として生まれたチャールズもまた医師になるものと期待されたのだろう。父親の勧めに従って、1825年にはエジンバラ大学の医学部に入学している。ただ、本人にとっては、医学の講義はどれも退屈なものだったらしい。博物学や地質学に、より多くの興味を持ったようで、2年後には同大学を退学してしまっている。この年、改めてケンブリッジ大学のクライスツ・カレッジに入学した。これも父親の勧めによるもので、本人が牧師を志したかは不明だが、「田舎牧師になるのも悪くないと思った」と自伝に書いている。ここで、植物学者でありながら博物学にも長じていたヘンズローの講義を聴いたチャールズは、ヘンズローのことを自分の指導者だといっている。卒業の年に軍艦ビーグル号に乗船することになったのも、このヘンズローの推薦があったからであり、また帰国した後もヘンズローとの交流はずっと続いた。

ビーグル号乗船までの舞台裏

 神学部を卒業して牧師への道を歩むはずだったチャールズが、なぜ軍艦ビーグルに乗ることになったのか。そのいきさつはもう少し触れておかねばならない。もしこの乗船がなかったら、彼のガラパゴス諸島訪問もなかったし、また博物学者チャールズ・ダーウィンの存在も、彼の進化論も生まれなかったかもしれないからだ。歴史に“もし”や“たら”を言うのは無意味であるが、このいきさつはやはりきわめて重要と思われる。

 もっとも、この当時はまだ研究者は独立した職業として確立していなかったので、博物学などは牧師の副業として行われることが多かった。

軍艦ビーグル号

軍艦ビーグル号はダーウィンを乗せたことで有名となった。ダーウィンとともに乗船していたジョン・クレメンツ・ウィッカムのスケッチ。

© The Complete Work of Charles Darwin Online (http://darwin-online.org.uk/)
軍艦ビーグル号

 軍艦ビーグル号は英国海軍に所属する測量艦だ。測量や海図の作成などを行っており、ダーウィンが乗船する前も南米地域で仕事をしていた。以前は副長として乗船していたフィッツロイが艦長となり、改めて南半球一周を試みる際、博物学者(ナチュラリスト)の同乗を望んだという。この推薦依頼がヘンズローに来て、彼がダーウィンを推薦したらしい。貴族であった艦長のフィッツロイにとっては、上流階級出身の乗船者は話し相手としても欲しかったようだ。また、それ以前にも測量艦などに地理学者や博物学者を乗せる例は多かった。南アメリカの探検家としても有名で、今では海流や高山の名としても知られるフンボルトもその一人である。

 この推薦を受けたダーウィン本人は乗り気だったらしいが、父親の猛反対、姉たちの反対もあって一度はあきらめたという。牧師志望には不要だという反対もあったそうだ。だが、結局チャールズはこの船に乗ることになった。父親の反対を翻意させたのは、チャールズの母方の叔父にあたる2代目ジョサイア・ウェッジウッドであった。実は、ダーウィン家とウェッジウッド家は、単にチャールズの母が先代ジョサイア・ウェッジウッド(創業者)の娘であっただけではない。のちにチャールズの妻となったエマもこのウェッジウッドの孫であり、さらにチャールズの姉カロラインも2代目ジョサイアの息子と結婚している。いずれもいとこ同士である。

 こうしてビーグル号は、ダーウィンを乗せ、1831年の暮れにイギリスを出港し、南半球への航海に出発した。

ビーグル号の全行程

イギリスを出たビーグル号は南米大陸東岸を南下し、先端(ビーグル水道)を回って北上。チリ、ペルーからガラパゴス、タヒチを経て南半球を西進、再度南米によってイギリスに帰国した。

図:『ダーウィンの生涯』(八杉竜一/岩波新書)をもとに作成。

ビーグル号の全行程